深刻な結婚難時代で占い師も大繁盛?

真言宗寺院の縁日。門前の商店街の隙間に店開きをしている易者が、五十がらみの女性と話し込んでいる。

易者「悩んでいてもですね。来年の秋にならないと、いい縁談はきませんよ。しかし、それを逃すとですね。晩婚になるかも知れませんよ」

婦人「一昨年から去年にかけて、見合いの話が随分あって、本人も乗り気だったんですけど、結局はみんなまとまらなくて……」

易者、自信たっぷりに「そうでしょう! でも、来年の十一月ごろにはうまくいきますよ」

婦人「あたしが病気したもんで、娘に看病させて、迷惑かけてしまって……いまだって少し遅いくらいですものねえ……」

易者「結婚もタイミングですからね。難しい面があるんですよ。それでいて、みなさん収まるところに収まっているのは、やはり時の恵みというか、ピタッとした相手に会える時期がくるもんなんですね。世間のことをいろいろ体験なさっているお嬢さんですし、えり好みがちょっとウルサクなっているでしょうけど、印象のいい人が来年の秋には出ますよ……」

かたや寺の境内。スーツをきちんと着こなした恰幅のいい紳士が、息子の結婚相談をしている。どうやら社長サソらしい。

易者、筮竹占いを済ませたあと、「息子さんのお嫁さんには、色白のかわいいタイプがいいですね。あまり図体の大きくない人がいいです。そういうお嬢さんを探してきて、セットしてやると、うまくいきますよ。旦那さんの奥さまの娘時代のような、ポチャポチャッとした女 26の子をね」

社長「息子はクソマジメなんですよ」

易者「経営者の息子だから、逆に甘やかさず、しっかりとお育てになったからでしょう。いいじやないですか。いまどきの青年は、けっこうクソマジメですよ。相手の女性は、あまりやおらかくては困るけど、融通のきく人がいいでしょうね。息子さんが頑固なことを言っても、あまり気にしないような人ですね。いずれ会社を後継されるんでしょうから、社交性もあるお嫁さんでないとね。小さな商店の家の娘さんにも、けっこう掘り出し者がいますよ。息子さんは、自分からオンナに声をかけない性格ですからね、周囲が用意しないと駄目でしょう。経営者の息子さんにしては、少し結婚がゆっくりですけど、三十歳がチャンスですね。相手は三つ歳下」

商業ピルの占いコーナ。ネットなどを暗い雰囲気でやりそうな「年増青年」と、色香漂う熟女占い師が御対面している。

年増青年「三十三になったので……そろそろ結婚したいんですけど……できますか……」と、恥ずかしそうに目を伏せる。

熟女占い師「できるよ」と、相手を包み込むような前置きをして、占いのトラの巻をめくり続ける。「近いうちに三人現れます。あなたの住まいから東の方向の女性は、性格はいいけど結び付きが弱いのね。北西の女性は、あなたと十歳ぐらい違うけど、めっけもんヨ。これが本命ね。性格はキッイけど、この人と結ばれます」

年増青年「キツイのが本命ですか?」

熟女占い師「そうよ。キッイといっても、女の子はプロポーズを待ってますからね。あなたが積極的になって、引っ張っていかなくてはダメよ。押しの一手で攻めなさい」

その熟女占い師の話では、一年後、その青年が見違えるようにニッコラニッコラして、占いコーナーまで礼を言いに来たという。彼いわく「本当にめっけもんだったけど、本当にキツイおんなです。先生」。ああ、メデタシメデタシ。

長寿化社会を迎え、昔だったら「役立たずのジイさん」といわれた高齢者たちが、お金と性的欲求不満を溜め込んで、高齢者のダンスパーティはおろか、ソープランドや街頭はハントに出かける自由恋愛黄金時代のなかで、若者たちの空前の婚活難が続いているという。そのため、縁結びビジネスが急成長。結婚情報マガジンが続々と発行されている。コンピュータを備えた結婚相手のリサーチバンクも各地に出現し、売り上げを激しく競い争っている。

いずれも、結婚希望者の人物リストをプールして、学歴や職業、収入、顔や身体の出来具合など、どこの馬の骨かを示す情報を用意し、特定多数に選択させる仕組みである。そのデータに欠かせないのが、血液型だということだが、それはともかく、未婚のオトコをオソナがクジびきする『ねるとんおみくじ』なる自販機まで登場する「結婚難時代」の要因はどこにあるのだろうか。

プライバシー尊重主義の肥大により、よけいなお世話と言われかねないため、お節介屋が消滅した……仕事が細密化して個々人の世界が小さくなり、人間関係もますます限定されてきた「総おたく化現象」……年の差をもって結ばれるのが当然という旧来の考え方が続く一方、現代の若者たちは歳の上下関係のなかで育成されていないため、年齢差のある人間との交際が下手……車が多すぎて路上でも安全な広場でも人と遊ばなくなり、小さいころから室内の機械と学参書に取り囲まれた生活で、スキッシップの快適さを刷り込まれていない……ゆえに異性の肌を求めようと突進する迫力に欠ける……表面的な付き合いは上手だが、深く馴れ合うのは苦手……。

育ててくれた母と父の関係を観察していても、夫婦の良さも概念も理解できない……男の仕事の大半はいまでも黙々と汗水をたらすドロ臭いものという現実と、身長・学歴・年収の「三高」が条件にされてしまう。ギャルのオジさん化と、セーネンの少女化という行き違いがある……結婚は人生の終焉、単身でいたいと考えるモラトリアムの深化……可愛いとはいえない暗い幼児が多くなり、結婚して子供を産みたいとも思わない女性が増加した……。

男女の生存率のアとバランスも、決定的にある。男は女より解剖生理学的にみて欠陥が多く、死亡率が高い。

そのためなのか、一〇六対一〇〇の割合で、男が多く産まれ、二十歳ごろでちょうど同人数になるようにできている。ところが、医学の進歩は、この「神の摂理」を壊し、以前なら死んでいたはずのオトコどもが、生き延びてしまっている……などなど。

といったわけで、結婚適齢期のオトコは五十万人もだぶつき、オトコの未婚率は上昇する一方。三十から三十四歳のそれは、一九七〇年当時十二%だったものが、いまは約二倍になろうとしているのである。

しかし、「非婚時代」などと騒いでみても、男の幸福は仕事と家庭、女は結婚と子供、といった旧来からの価値観の激変など起こるわけがなく、満員電車や街頭で、青年少女もオジさんギャルも「結婚したい」と叫びたくなる本音は少しも変わるまい。

ただし、女が強くなったとはいっても、結婚を切り出すのは九割が男の側で、「私と結婚して!」と詰め寄る女は三%に過ぎない。これは、欲望をストレートに出せる男性ホルモンと、欲望をフィルターにかける女性ホルモンの相違から生じる行動。その意味で、オジさん化したといっても、未婚女性の女性ホルモン量は、以前と変化ないようだが、少女化した青年の結婚への優柔不断さが取り沙汰されていることを考えると、青年の男性ホルモン量は、もしかしたら少なくなっているのかも知れない。「性愛の衝動」などは、理屈をこねても、コンピュータをいじっても出てくるわけではなく、ホルモンが決めるのだ。

いずれにせよ、そんな事情があって、息子や娘に、交際している異性がいないらしい、とヤキモキする親たち、優しさだけが取り柄のような青年、「嫌になったら離婚すればいい」なんて絶対に思わないギャルたちが、「結婚どうしよう」と、占い師のもとへ相談にやって来るのである。占いで相手をズバリと選んでくれる「占い結婚相談所」があり、けっこう成果をあげていると聞く。

これらのことをふまえると、占いで結婚への一歩を踏み出すこともアリだと思う。

しかし、実際に行動をおこすのは自分自身なので、結婚できなくてもその責任は自分にあるということは忘れてはならない。

 

紫頭巾の占い師

関西には、オコソ頭巾で有名になった元宝塚女優の占い師、泉アツノさんがいる。歌手やタレント、クラブホステスなどを経験したあと、白蛇霊感占いで一九七五年にデビュー。ヘビの置物に拝礼して叫声をあげ、声帯を絞り込んだようなウラ声と独特の口調でヘビのお告げをしたあと、「こなの出ましたけど……」と、とてもチャーミングな笑顔を浮かべてくれる。

が、紫頭巾をかぶった占い師の本家本元と思える女性に、東京・浅草の国際通りで出会った。その女性は一九五九年頃から、和服に頭巾にダテメガネというコスチュームを通してきたという。商売用の衣裳を脱ぎ洋服に着がえれば、人の良さそうな普通のオカミさんで、頭巾ルックに別段たいした理由はなく、やはり特徴づけるためだそうだ。

浅草の紫頭巾さんが「占場」にしていた場所のすぐ近くには以前、『銀河』というキャバレーもあり、国際通りの賑わいに華を添えていた。いまは夜になれば歩道全体が暗く寂しく閑散としてしまい、自動車の喧騒に圧倒される歩行者は、何かミジメな気分さえおいてくる。

しかし、この国際通りが、浅草全域が、どんなにすたれようが、彼女は決して場所を移ろうとはしなかった。

一人のお客も来ない日も、熱帯夜の蒸し風呂のような日も、蚊取線香の煙をすり抜けた蚊に刺されようが、寒風が強く吹こうが、毎日夜の十二時、夏は二時過ぎまで、座り続けてきた。

「ふいに来るお馴染みさんもいるし、心配だし……」と、紫頭巾さんは、それが当然のような笑顔をつくる。一見のお客も固定客になる見込みを考えて、街占者は自宅の電話番号を教えておくのが普通だが、お客によっては予約を嫌い、ふらりと街で再会した雰囲気で占ってもらいたいという人もいるのである。

街占者が決まった場所に出没し始めると、その道の風景には欠かせなくなり、いつも居るのに居ないとなると、ひどく気にかかるものだ。とにかくそこへ行けば必ず居るというこの存在感は、占いに無関心であっても安堵の情を人々に与える。これが、路上生活者と街占者の決定的な違いといえよう。一方は排除したい衝動にかられ、片方は永遠に居続けてほしいという願望すらいだいてしまう。

紫頭巾さんは長野県の農家育ちで、一九五五年に上京。特別な理由もなかったが、「高島」を名乗る易者に教えを受け、街占者になった。女占い師としては全国的にみても古参に属す。だからではないが、名刺は「高島易断婦人部長、浅草易断婦人部会長、宗家高島松園」だ。

「生活に困って始めたわけじゃないしね。お金を儲けようとも思ってないのね。小さい頃から人の顔を見すえては、あれこれ講釈するのが趣味だったようだけど、これも神様が導いてくれた仕事。だからこれまで遠くへ出張したことも、旅行もしたこともありません。自分の身体であって自分のじゃあないのね。近くのお不動様に御参りするのが息抜きかしら。とにかく毎日出ています」

まだ世の中に女占い師が少なかった昭和三十年代、神の代理人のような紫頭巾さんにあろうことか、酔っぱらいが「ナソダオメー……オンナのくせに風呂敷なんかかぶって、こんなところに座りやがって……フザケルナッ。ナソダッテンダ……」とがらんできたことがよくあった。

「そのたびに見台と商売道具を持って逃げたんですけど、そういう人に限って、あとでいい事ないね。悪かった、と謝りに来た人もいますよ」

いろいろな人に出会ったなかで、最高のお客さんは、いまの旦那様だとか。御主人は商売をしていて、占い者としての知恵をさずけたりもする。

火災、盗難、金銭トラブル、詐害、事故、ケガ、病気、愛情事件、仕事のつまずきなど、紫頭巾さんに持ち込まれる相談も限りない。そうしたなかで、最近めっきり増えたのが離婚相談だ。

「若い人にはもっと家庭を大切にしてもらいたいね。すぐに別れると言いだしたり…マジメな旦那さんの奥さんが浮気したり…いけませんねえ。人生にはいろいろなことがあるからね。家庭を大事にして、こらえて辛抱して努力してほしいね。私は離婚は絶対にすすめないね。歯止めをかける言葉をかけてやります。それに、ちょっとツライことがあると生命を粗末にする風潮があるでしょう。死ぬほど苦しんだ人ほどいい人生を歩めるんだから、イノチ、大切にしてほしいね……。街頭に出ていると、いろんな体験もするねえ。売り飛ばされそうになっている娘を助けたり、道端に寝転がっちゃって、放っておいたら死んじゃいそうな泥酔のオッちゃんにタクシーを拾ってやったり……」

話を聞いていた浅草の喫茶店のママさんが、紫頭巾さんに「センセー、おかげ様でいいお店が見つかりました!」と、はしゃぎながらペコペコと頭を下げた。新しいお店を、紫頭巾さんが占いで見つけてやったのだそうである。

 

都市の闇を演出する異人=街占者の群像

街占者の多くが、その生活の拠りどころとしている〔手相学〕〔人相学〕の歴史は古く、インドが発祥地という。仏像の手や顔に吉相が込められていて、それを基準にして、人々の手や顔のかたちやスジの良し悪しを考えるその〔観相学〕が、中国や近東に伝播していった。

中国では、周の時代に、〔観相〕を熱心に研究する者が出て、明の時代には『神相全篇』を著す大家も登場した。そうした中国の人相や手相の本が、奈良時代から平安時代にかけて日本に輸入され、貴族の間でもてはやされた。

〔観相学〕が一般に流布するのは中世以降だが、江戸末期の占いブームのなかで、有名な水野南北が『南北相書』をまとめたり、石龍子法眼なる男が『神相全篇正義』を出した。これが、日本人による手相・人相の本格本といわれている。

一方、ヨーロッパで最初に手相・人相に関心をもったのはギリシア人だった。アリストテレスいわく「手は一つの機能ではなく、いろいろな機能の顕れである」と語ったそうだ。

ギリシアでは、メソポタミアで生まれた占星術も体系化されたため、占星術と手相・人相が結びっけられて各地に普及。流行と衰退の波をみせながら復興したのは十八、九世紀だった。占星術とは一応切り離されたかたちで、フランスを中心に手の神秘学や人相・骨相学を研究する者が相次いだ。

そのヨーロッパ流の観相学が、近代日本の第一次占いブーム期であった明治末期から昭和初期にかけて輸入され、現代に至っている。手相の生命線、感情線、知能線、運命線といった四つの基本線の呼び名もヨーロッパのもので、人相では、まず全体の印象を重要視する判断方法も、ヨーロッパ流とか。

いずれにしても、人相・手相の〔学〕は、人間特有の心理作用や感情、労働やふだんの生活のなかで発する身体動作などが、肉体の一部に凝集して現れるのでは……との考えが根底になっている。

たしかに人間の手や顔は、身体の他の部分にくらべ、きわめて個性的にできている。年を重ねるにつれ、その〔相〕の差異もより明確化してゆく。また、人間の手は、モノをつかむ、さわるという二大機能を中心に、多面的な機能を有している。手の発達と大脳の発達の関連を否定する生理学者は皆無だ。

とりわけ日本は、手作り……手編み……手前味噌……もみ手………ネコの手も借りたい……働けど働けどわが暮らし楽にならず、ジッと手を見る……というように、「手の文化」ともいわれるだけあって、手に意味をもたせたり、手の皺の詮索を好んできた。肉体の構造上、「手の甲」は自然と目にふれるが、「手の平」は意識的に観る必要のある「文化的な営み」なのである。

人間は顔で生きる動物でもある。元気の有無や喜怒哀楽の表現は、言葉以上に顔がしてくれる。他者との交流手段として機能させるには、顔は毛むくじゃらではない方がいいため、顔の毛が激減していったそうである。

こうした特質をもつ人間の手や顔は、心身医学や社会科学などの面からも、研究に値するものなのだろうが、手相や人相と真剣に取り組む学者はほとんどいなく、むろんまだまだナゾだらけ。心と身体の状態を発露した結果が、手と顔の相ではあったとしても、手と顔から心と身体の内面を読みきってゆくのはそう簡単ではない。

「日本の政治家の人相は悪い」といわれる。最近の日本人の人相はますます悪くなっているから、もしかしたらみんな政治家的になっている、といえるのかも知れないか、人相がすごく悪いからといって日本の政治家に向くとは限らない。額が広いと頭も良さそうにみえるが、顔を見てその子の偏差値を当てることもできないのである。

そんなこともあって、この闇のような〔学〕は、〔大道占い師〕の独擅場となる。

人類という生き物は、暗黒大陸や未開地のような闇の部分に光を当て、侵入するという歴史だったともいえる。と同時に人々は、神々の棲息する森や聖地や闇の部分や、闇に生きるような異人を、無意識的に残そうともしてきた。

村社会と違って、都会のように資本の論理による開発志向が強く作用する地域では、自然の闇は維持されにくいのだが、そこはうまくできていて、ビルの屋上の鳥居のように、コンクリートの箱で形成される都市空間のちょっとした隙間に、闇の部分が自然に形成される。

得体の知れぬ〔大道占い師〕が、その都市の片隅に座ることによって、都市の小さな闇は、より闇らしくなる。〔大道占い師〕は、都市にも不可欠な闇を演出してくれる異人神=聖職者なのだ。

合理主義に固まった都会人が、道の片端に居座る彼ら彼女らを蔑視しようが、無視まではできないだろう。路上の浮浪者とは似て非なる存在だし、第二堂々と通行人を見すえているではないか。

毎日決められた生活をし、理性と分別で行動の自主規制をしている市民も、時折ささやかな事件や悩みを抱え、不平・不満・不快感をつのらせる。大宇宙からみればミクロのチリのようなことでも、その当人にとっては一大事。理性や分別などは、強固に凝結された組織と日常性のなかで作用するもので、そこから突き離されたとき、自分がいかに頼りない存在かを痛感する。

悩みとか迷いというものには、精神的飢餓感や寂寥感や空白感が付きまとうもので、そんなとき「いい人」が身近にいれば、心も温かくなり、ある程度満たされた気分になるだろう。だが、「いい人」はいま、あくまで組織や経済活動のなかで演じられるまでに時代は変化した。

悩みと迷いにさらされた人々は、エアポケットに入ったような苛立ちで、インスタントでもいいから、「自分にふれてくれる人」を求めようとする。それが路上に居る。変な人叺偉そうな教義はない孤独な〔卜師〕=〔街占者〕というわけである。

古色蒼然としているからなおさら、街占者が見台に立てるローソクの揺れる光明は凄味がある。手を照らす懐中電灯の光芒にも、人々は眩惑される。自分の顔をしかと見つめ、手を握ってくれる占い師。世界一オシャレといわれる日本の未婚のOLや女子大生に、意外と街占ファンが多いのも、そうした凝視とスキンシップの快感が景あるからだろう。

むろんお客はギャルだけではない。主婦や青年……政治家とその秘書……サーブリーマン……自営業者……社長……会社役員……お金持ち……芸能人……フリーター……ほおかむりしたような歩き方で、深夜に忍び足で立ちどまる夜逃げ倒産社長だってやってくる。入院する病院の方向を相談する高齢者……独立開業を志望する気弱そうな青年……息子が交際している派手なオンナと縁切りさせたい母親……などなど、深刻な顔付きで街占者に手を差し出してしまう職種や階層は、実にさまざまだ。

街占者が最も嫌うのは酔っぱらいだ。が、現代人は、酒をあびてようやく我にかえれるような忘我自失の状態で酷使されている証拠。どうか全国の街占者の皆さん、ろれつのまわらないサラリーマンに「ウラナエ!」と言われても、やさしくしてやってください。同僚と酒を飲んでも、いや飲めば飲むほど寂しくなってしまうほど、管理されてしまった組織人が、束の間のふれあいを求め、錆びついた精神の清掃、つまり、喉に詰まったドス黒い痰のようなものを吐き出す「心の立小便」をしたがっているのです。

いま日本の都市の路上で、何人ぐらいの街占者が商売をしているのかは、まったく把握されていない。街占者はもちろん、自宅や事務所で占いを業としている人々も、特別な許可や届出などは必要としないからだ。業界通によると、全国には十万とも五十万ともいわれるプロやセミプロがいるそうだが、いずれにしても、精神科医の人数を圧倒しているのは確実だろう。

かつては、大道で生き恥と無知ぶりをさらすことも、「占術の大家」になるための修業の一つとされてきた。だが、最近は占い師志願者の考え方も大きく変わり、路上で開業する駆け出しは急減している。各地の商業ビルに占いコーナーや占いショップができ、街占のお客は減る一方なのである。

街占者のショバは、街の中心部にある駅前や商店街、飲み屋街などにほぼ限られていて、よく見かけるのは、なぜか金融機関のシャッターが閉じられた前だ。

「住所不定無職の路上生活と街占は三日やったら辞められぬ」などとというが、毎日休まず店を張る人がほとんどらしい。もっとも、昼間は家でゴロ寝をしながら酒を飲み、飲み過ぎた日は稼ぎに出ない、という自由人も少なくないとも聞くが……。

お客と同様に、「街占者」も実に千差万別で、この種族のバラエティに富んだ「人材」ぶりに驚かされた。

昼間は図書館で思想書を読みあさるのを日課にしている人……一言の励ましを与えたいために街頭に出るというボランティア精神のオジさんやオバさん……お客を腐らせながら当てずっぽうを喋り、高額の見料を巻きあげる者もいる。

花売りをしながら占ってくれるロマンチスト…腹を立てるとすぐ短刀を抜き、露店商仲間からも恐れられている男……とにかく目立つことが先決と、僧侶や神主のコスチュームで威張っているヒゲ面……ホステスのような厚化粧で決めている女占い師もいて、スケベ心で手を差し出すと法外な料金を請求され、文句を言おうものなら近くに出ている″マル暴″の大センセイが飛んできて、逆に脅されるといった話もある。

そのほか、離婚がきっかけで占いに溺れて、街占者になったオンナ……転職バックをした末に、占い師にたどり着いたオトコ……元僧侶……自称医学博士、元社長、売春兼業のオンナ……乳飲み子を背負った主婦……懺悔の気持ちで占っている前科何犯もいる。

最近すっかり増えてしまったのが、某新宗派系の街占者だ。その教団の九州一派に手相を教える先生がいて、その弟子が北上。弟子が弟子を生み、すでに全国で三千人が都市の路上で見台を構えながら「布教活動」をしているという。

この一派の街占者たちは、表情筋が退化したような無愛想な顔だちで……空を見つめるような眼付き……といった共通特徴があるため、遠くからでもすぐ判別がつくはずだ。

客を待っているようすがない者もいて、何のために出ているのか、疑問に思うのだが、たまに引っ掛かる客もいる。ひととおりの手相判断をしながら、因縁話にもち込むのがこの一派のやり方になっているのも知らず……。

「悪因縁を断ち切るために、うちの道場で修業しなさい。ついては指導料三十万円を……」というのが彼らの手口である。

教団系であろうがボヘミアン系であろうが、街占の開業は、その街をショバにしている地元のヤクザに礼をつくし、場所代を払うシキタリが強制されてきた。街によっては、親分の出所祝いや盆・暮のつけ届け、冠婚葬祭の付き合い、各種興行のキップ購入なども強要され、泣かされることも少なくない。

1992年から施行された「暴力団対策法」によって、この点が少しは改善されたし、喋ることに自信があり、多少の社会常識と人生経験をもっていれば、街占は誰にでもできる。つまり、手相や人相を観る側と観られる側は、一見かけ離れているようだが、その境界などはファジイで薄っぺらなものなのである。

だから、たまたまプロの街占者の代わりを一日だけやったのをきっかけに、それ以来、街頭に座るようになったという占い師もいる。元の職種がさまざまなのは、そのためでもある。

しかし、路上の聖職者には誰でもなれそうな反面、恐ろしさが付きまとう。

その恐ろしさとは、酔客や街のチンピラなどではなく、「日本の無計画に都市化された街」特有の熱気、乱気流、雑音、騒音、臭いなどである。これらが、街占者に、お客以外の者に対する硬い防禦姿勢を形成してしまう。そしていつしか、心も身体も硬化して、ヒビ割れてゆく。そうした街頭の恐ろしさを超越し、野たれ死にするまで心優しきオバさまオジさまであり続けるのは、至難のようである。

 

「新宿の母」の前には今日も女たちが列を…

ヘソの緒、根っ子、歴史、ルーツ、由緒、古風な地域、ボスなどを持たぬ世界最強の繁華街=東京の新宿は、ありとあらゆるヒトとカネを飲み込み、消化変形しつつ、膨張してきた「租界」である。

誰もが許可証なしで入場でき、勝手気ままに稼ぐ手段をこうじられる原野。喪われたお祭りのアナーキーな賑わいと異様な熱気が、まだここには残されている。功成り名を遂げようと、淪落し野たれ死にしようと、あるいはアングラマネーを駆使できる帝王になろうが、ここは許される都市なのだ。

だからだろう。新宿には街占者がざっと百人も出没するといわれている。西口の駅頭や東口の靖国通りや新宿通りを中心に、各人が絶望と夢を交錯させながら、灯りをともし、アリのような匿名の人間たちの相手をしている。

「新宿の母」という絶妙な雅号をもっ女性占い師=栗原すみ子さんもいつもの場所、伊勢丹わきの銀行前で、今日もっぎっぎと女の子を診ている。

彼女の前に、オンナ達が列をなすようになってもう三十五年ぐらいになる。出ては消え、忘れ去られていった占い師のことを考えると、彼女は恐るべき幸運な人と言うべきかも知れない。彼女ほど名が売れ、客が付いた街かどの占い師は、平安時代からでもいないはず。占い史上特筆すべき存在である。栗原さんが占った女性はすでに、百五十万人! を超えたそうだ。

いまでもお客は一日およそ百人。アベックや、母と息子の客はいいが、並んでいるときに悪さをするので「男性のみ」はお断りだ。六割が学生とOL、三割が主婦、一割が高校生で、平均年齢は22歳ぐらいだという。

栗原さんに手相を診てもらいたいために、早朝七時半には一番乗りが来る。そして、彼女たちは、西日に照らされようが、寒風に吹きさらされようが、排気ガスで鼻穴が黒くなろうが、二、三時間は順番を待つ。オトコは序列をつくるのが好きだが、卵を持つオソナは長蛇の列に耐えられる体質があるのだろうか。

昭和三十年代のはじめ、同じ新宿で三越デパート裏の暗がりに出ていた女性易者も、当時のOLや短大生に抜群の人気を誇っていた。増田朝子さんといって、明治生まれの高齢だったこともあり、1961年で街占を辞めてしまい、だいぶ惜しまれたと聞く。

その増田さんと交替するかのように登場したのが栗原さんなのだが、客数は増田さんをはるかに凌いでいった。

相談内容は、まだ現われ出でぬコイビトのこと、彼氏との相性、ボーイフレンドの選択、結婚、不倫の恋、三角関係、妊娠、近親相姦、夫婦仲など、オトコに関することがほとんど。

だが、ヘソクリで株に手を出して失敗したあげくの離婚や相続のイザコザ、悪徳商法の詐害などの相談もあり、栗原さんは、法律もしっかりと勉強しているという。

栗原さんがここで鑑定を始めた年は、売春防止法が施行された直後で、職を失った女性たちの深刻な、聞くも涙の物語といった色合いが濃厚だったが、最近はオープンであっけらかんとした内容も少なくない。

とはいえ、過剰すぎるほどのモノに囲まれていても、いまの女性たちの心淋しさを充分知りつくしている「新宿の毋」は真剣だ。一人約五分。険しい表情を浮かべながら、太い声と茨城なまりの混じった口調で、たたみ込み説きふせるように「人生訓話」をする。

かつては、定休が月に一日とか、毎週水曜日と大晦日のみ、といった出っぱなしの毎日で、夜の8時9時まで立ち、一日二百人から三百人を診ていた。しかも、帰宅後に手紙による相談の返事を書く凄まじい生活だった。

最近は、還暦を迎えたこともあって、月曜から水曜を「休鑑日」にしているものの、木曜と金曜の午前中は、近くの喫茶店『『ヤセ』で一件七千円の総合鑑定をして、午後一時から五時まで街頭で診る。土曜と日曜は、午前九時頃から午後の五時まで路上に立ち、ぶっ続けで占う。

椅子ぐらい使ったら……と思うのだが、「みんな立って順番を待ってくれているじやないですか。私だけ座るわけにはいきませんよ」と栗原さん。しかも、この間、食事も休息もとらず、トイレにも行かない。

1984年に、温厚な大学教授といった雰囲気のいまのご主人と出会い、車での送り迎えや交渉ごとなどのマネージャー役をしてもらうようになり、だいぶ余裕ができたが、それでも、身体にムチを打ち路上に立ち続けて相談にのる基本的な姿勢は変えていない。

現在は高校生が三千円、一般の人は四千円で、一日百人としても日商約四十万円弱!

だが、手持ちがなかったりする客は無料にしてしまうそうだ。また、「新宿の母・易学鑑定所」という会社組織にしていて、栗原さんが会社から給料をもらう方式にしているし、ふだんは明るく面白いオバさんといった感じで、気前もいい。だから、「お金なんか残さない主義だし、財産といえるものはありません」とキッパリ。

鑑定時間と休日をしっかりと決めて守っているのは、ある事件で栗原さんがひどく後悔したからだった。

ある年の冬のこと。貧乏な絵画きのタマゴと恋におちた社長令嬢から相談を受けたのである。両親に猛反対されているそのお嬢さんに、栗原さんは「何が何でも、好きなら一緒になりなさい!」と激励した。だが、そのお嬢さんは、家族と恋のはざまで憔悴していった。何日かたち、栗原さんがカゼをひいて出なかった日の翌日、栗原さんは前日に令嬢が近くのクツ磨きのオジさんに預けた手紙を受けとったのだ。

「今日一日中オバさんを待っていました。もう一度会って死のうと思い……」と書かれていた。その令嬢は本当に多摩川に身を投げてしまったという。

「だから滅多なことでは休んではいけない」と、その事件以来キモに命じ、健康には他人の数倍も気を使うようになった。一週間に一度は健康診断を受け、野菜ジュースと薬と栄養剤を欠かさない。酒とタバコ、暴飲暴食は厳禁。身長一メートル四十五センチの小柄で、もともとが頑強な身体とはいえ、いまどき珍しい清廉潔白な行者のような毎日を送っている。

「寒さには強いし、冬は耐えられます。いまだって雨の日・雪の日でも休みません、真夏の方がかなりキツイんです。でも、氷で冷やしたタオルを首にまいて頑張ってます」

栗原すみ子さんは、一九三〇年に茨城県協和町で生まれている。四人兄妹の三女で、父とは幼いころ死別。旧制女学校を卒業し、和裁や洋裁を習い、一九五二年に結婚。家族は相手の女グセの悪さと金づかいの荒さを知って猛反対した。三年後に長男が誕生。しかし夫の道楽はやまず、乳飲み児を連れて生家へ戻った。この頃から、彼女の人生の波が大きく狂っていった。

和・洋裁をもう一度学び直しながら、自活の道を探ろうと、単身で上京。ところが、東京で女性一人で食べてゆく生活はそう甘いものではなかった。鬱々とした毎日が過ぎ、働きづめでボロボロになっていった。そんな一九五五年の夏のある日、銀座の占い師の前で足をとめたのが運命のいたずらだった。

「悩んでいるようですな。あなたは典型的な後家相。オトコ運は良くないよ。気性も激しいし……独立心が強いから、自分で何かやられるといい」と言われたのである。

生活に疲れているとき、占い師の言葉はグサリと胸。に突き刺さる。このひと言が栗原さんに新しい活路を開かせる勇気を与えた。占い師の多くが、ひょんなきっかけで占い師に弟子入りして、この商売を選んできたように、彼女もその占い師に付くことを決めたのである。以来、一杯飲み屋の手伝いや出前運び、オミクジ売りなどをしながら、易者修業に励んだのだ。

ところが、家族は、彼女の決意を聞いて激怒し、嫌悪の情をつのらせ勘当同然の扱いをするようになった。別れ別れとなった長男は、「父も母も死んだ」と教えられて育った。長男が栗原さんを「お母さん」と呼び、一緒に住むようになったのは、一九七八年、長男が二十四歳になってからだった。

易者修業で栗原さんも、東京の銀座、池袋、渋谷、上 景野、浅草、赤羽、高円寺、吉祥寺、大宮、横浜など、開業場所を転々としている。道路交通法違反だ、と警察か 風らは睨まれ、同業者の嫌がらせやヤクザのイジメもたくさん味わっている。新宿のいまの場所に来たのは、一九五八年。その場所はそれまで、別の門人がやっていたものの客が付かず、食いつめて首をくくったとのエピソードも残っている。

この頃は、占いがブームになりはじめ、女性の占い師が脚光を浴びようとする時期でもあった。栗原さんのまわりには、たちまち黒山の人だかりができ、それがいつしか行列に変おっていった。そして、日を追うごとにお客が増え、全国でナンバーワンの占い師になったというしだい。

栗原さんの人気は、茨城県人に多い計算抜きの正直さと、サービス精神からきているのだろう。そうでなければ、これだけの知名度を得たいま、街占の、それも立ちっぱなしの「立見」などは続けられないはずである。エアコンと座り心地のいい椅子のある豪邸や事務所で占う「宅占」に転じてもヽいまの稼ぎはもちろんヽそれ以上の実入りも確保できるはずだ。

だが、「そんなことをしたら、本当に困っている女性が来られないじゃないですか」と言い切る栗原さんだ。

栗原さんの占いは、手相と生年月日を中心にしていて、方位の吉凶は口にせず、墓売りや開運印鑑売り、といった霊感商法的なことはいっさいしない。逆にそうした霊感商法に引っかかり、五十万円、三百万円と払ってしまい、心の傷も負った人々をたくさんケアしてきた。

「最初に私のところに来てくれれば、霊のタタリなんてないんだよ、と言えますが……祈祷料は取り戻すのがたいへんなんですよ」と残念そうだ。

「占いは、女性たちが迷いの淵に落ちぬよう、自分の力で不運から抜け出し、幸せを手にするよう、親身になって、自信と勇気と希望をもたせる言葉を投げかけること」というのが栗原さんの信条で、占いをこえた「街かどの人生コンサルタント」といった方が良さそうだ。これが、若い女性たちを引きつけるらしい。

「先生こんにちは。この1ヵ月あまり、自分で自分を苦しめ、暗く沈んだ日々を送っていました。しかし、先生に占っていただいたお陰で、自分の周囲にあった霧がサッと晴れたような気がしました。これからは、前向きに努力して明るくなろうと思います。本当にありがとうございました」

「チャンスは逃さないでね、との先生のお言葉があったからこそ、現在の新しい夢と新しい世界に恵まれ、充実した毎日を過ごしております。本当にありがとうございました」

こうした感謝の手紙が月に百通ぐらい寄せられる栗原さんは、「体力が続く限り、華やかで残酷な大都会に押しつぶされそうな女性相手に、街かどの占い師を続ける覚悟。私の仕事を邪魔する者は家族といえども容赦はしません」と言い切る。これほど徹底した街かどの占い師は、もう二度と再び、登場することはないに違いない。

栗原さんは、一九九三年の夏、故郷の茨城県協和町に、千七百万円を投じて、『幸せ観音』を建立した。弟が住んでいる家の裏側の五百坪の農地を、公園のように整備。五メートルの観音像を据えたのだ。

「ある神職の方から、手紙をいただきましてね。もしあなたが、いなくなったら、悩んでいる若い女性たちはどうしたらいいのか? と書いてありました。これにハッとして思い立ったんです。私がいなくなっても、支えのようになれば……との願いを込めて建てたんです」

だからといって、栗原さんは、教祖になったり、宗教法人にするつもりはまったくない。ゆくゆくは、そこを女性の駆け込み寺と人生相談所のようにしてゆくつもりという。

 

迷い多き人生の並木道。一度は占っておきましょう

十数隋建てが林立する東京・板橋区の高島平団地―。いまは防止フェンスが張られて、めっきり少なくなったものの、1970年代に建てられて以来、自殺志望者憧れの″景勝地”とされ、屋上や階上の廊下から、これまで百人ぐらいが死のフライングを決行している。

そんな団地の中央通りに、占いオバさんが出ていた。

オバさんが占いの場所に決めていた周辺には、生鮮食料品の移動ショップなどが店を張っていて、ざわついた雰囲気はあるものの、白昼の団地通りと占い師の取り合わせは、どう見ても奇妙な風景だ。

だが、そんなことはおかまいなしに、オバさんは毎日11時ごろ、埼玉県の志木から「出勤」していた。

大きく育った並木に、ヒモでくくり付けておいた日本酒の木箱から、青いビニール袋や壊れたストーブなどを取り出すのが一日の始まりだ。

袋の中には、筮竹や天眼鏡など、商売用の小道具が隠してあり、木箱は、そのビエール袋をテーブルクロスがわりにして「見台」に仕立てるのである。

壊れたストーブがオバさんの椅子で、そこに小さな座ぶとんを載せれば、まんざらでもない。そして、排気ガスと埃ですっかり灰色にくすんだ木綿の幕を、並木の枝と見台をうまく使って張れば、一日の準備は完了だ。

『迷い多き人生の並木道。一度は占っておきましょう』

こんな惹句や手相の解説などが書かれたその幕の横で、オバさんは夕方の6時ごろまで、ジッと客を待ち続ける。しかし、寄り付く客は皆無で、残念ながら、自殺志願者のお相手もまだ体験したことはない。

時間を持て余すあまり、筮竹を両手でガチャガチャと絶え間なく打ち鳴らすのが、いつの間にかオバさんのクセになってしまった。

街頭や路上の占いを「外占」とか「街占」と呼んでいるが、オバさんが、高島平団地でそれを始めたのは1978年頃である。それまでは、自宅に近い埼玉県の成増駅前で、サラリーマン相手に、夕刻からローソクを立てていた。「夜はツライしね。それにここはオンナの街だからね……」と高層団地を見上げながら、高島平が気にいっているようすだ。

新潟県十日町出身のオバさんの生家は、天理教だった。

「宗教が嫌で嫌でね。東京へ逃げ出したんだ。でも結局は、親と似たようなことをやっているんだよ」

戦時中は向島で勤労奉仕。二十歳で結婚し、三十歳で離婚した。子供は生まれなかった。その頃は、親類や家族の死が重なる逆境の連続だった。そこで易者を何人か尋ね歩いた。その一人に「辱しめ」を受けながらも、手相・人相・易を独学するようになった。飲食店で働き、自分の店も持ったこともある。酒場の酔客は、占いの勉強にはもってこいの教材だった。

「自分の方が酒に溺れちゃってさ。毎日ベロンベロンになるまで飲んでいた時期があった。アル中だよ。それを治そうと思って、ウンメイガクというクスリに頼っの」

その後お店をたたみ、〔街占者〕となったわけだが、占い師のほとんどが何らかの新聞や雑誌や放送局の取材を受けたことがあるように、オバさんも、団地新聞『高島平』に登場したことがある。そのときは、和服姿も凛々しく、胸を張り、メガネもキラリと光っていた。その新聞の見出しには、「団地族の悩み一身に。離婚、酒乱、尽きぬ相談」とあった。

「写真、撮っちやダメだよ。キライなんだ」

その新聞に登場した頃が、オバさんの最良期だったのかも知れない。当時の写真とくらべると、顔つきも身なりも、ひどく痛めつけられてしまったような感じだ。

冬は、並木の枯れ枝の隙間から陽光がオバさんを照ら 景し、木の幹が北風を防いではくれる。夏は、生い茂った木の葉が日傘がわりになるのだが、街頭で繁盛しないツラさはおおえまい。

「でも、ここに住んでいた20歳前後の若奥さんに泣きつかれたこともあったんだよ。主人が子連れの再婚で、自分の子供もできたけど、先妻の子とうまくいかないんだ。それで衰弱気味になっていて、五階のその子の部屋まで行ったことがあるよ。ワイワイ泣いてね。この街とも相性が悪いんだ。占い師にというより、大正生まれのオバさんに泣きすがったんだね。結局は足立区の方へ引っ越しだけど、転居日も診てやった。団地を出ることで解決しようとしたんだね。ここにもよく来たので、話し相手になってやったけど、「易者と相談している」って、たちまち噂のタネにされたらしい」

雨の日や雪の日は「店開き」ができないため、オバさんは一人暮らしの部屋で「書きもの」をしている。『カラカサの謎』『夢と現実』『私は野良猫放浪者』など、かなりまとめた。

「私、放浪癖があってね。月がきれいだ、星が美しいと思うと、フラフラ歩きたくなってしまう。連絡先かい?野良猫にたいした宿はいらんし、電話もないよ……自由でいいでしょう……でも、私ってグズグズしていて嫌になっちやうの。私の手相って、なかなか読みにくいんだ」と、シワだらけになった手の平を見せる。

オバさんが出ていた頃は、右手がかなり広い原っぱだった。いまは、地域図書館を兼ねた行政センターが建てられ、風景は一変している。そのセンターが着工した年だった。

「部屋代がたまっちゃってさ。家主に追い出されそうだよ。お金……貸しておくれよ」

公衆電話から私に連絡があったのだが、それ以後、オバさんは高島平から姿を消してしまったのである。