都市の闇を演出する異人=街占者の群像

街占者の多くが、その生活の拠りどころとしている〔手相学〕〔人相学〕の歴史は古く、インドが発祥地という。仏像の手や顔に吉相が込められていて、それを基準にして、人々の手や顔のかたちやスジの良し悪しを考えるその〔観相学〕が、中国や近東に伝播していった。

中国では、周の時代に、〔観相〕を熱心に研究する者が出て、明の時代には『神相全篇』を著す大家も登場した。そうした中国の人相や手相の本が、奈良時代から平安時代にかけて日本に輸入され、貴族の間でもてはやされた。

〔観相学〕が一般に流布するのは中世以降だが、江戸末期の占いブームのなかで、有名な水野南北が『南北相書』をまとめたり、石龍子法眼なる男が『神相全篇正義』を出した。これが、日本人による手相・人相の本格本といわれている。

一方、ヨーロッパで最初に手相・人相に関心をもったのはギリシア人だった。アリストテレスいわく「手は一つの機能ではなく、いろいろな機能の顕れである」と語ったそうだ。

ギリシアでは、メソポタミアで生まれた占星術も体系化されたため、占星術と手相・人相が結びっけられて各地に普及。流行と衰退の波をみせながら復興したのは十八、九世紀だった。占星術とは一応切り離されたかたちで、フランスを中心に手の神秘学や人相・骨相学を研究する者が相次いだ。

そのヨーロッパ流の観相学が、近代日本の第一次占いブーム期であった明治末期から昭和初期にかけて輸入され、現代に至っている。手相の生命線、感情線、知能線、運命線といった四つの基本線の呼び名もヨーロッパのもので、人相では、まず全体の印象を重要視する判断方法も、ヨーロッパ流とか。

いずれにしても、人相・手相の〔学〕は、人間特有の心理作用や感情、労働やふだんの生活のなかで発する身体動作などが、肉体の一部に凝集して現れるのでは……との考えが根底になっている。

たしかに人間の手や顔は、身体の他の部分にくらべ、きわめて個性的にできている。年を重ねるにつれ、その〔相〕の差異もより明確化してゆく。また、人間の手は、モノをつかむ、さわるという二大機能を中心に、多面的な機能を有している。手の発達と大脳の発達の関連を否定する生理学者は皆無だ。

とりわけ日本は、手作り……手編み……手前味噌……もみ手………ネコの手も借りたい……働けど働けどわが暮らし楽にならず、ジッと手を見る……というように、「手の文化」ともいわれるだけあって、手に意味をもたせたり、手の皺の詮索を好んできた。肉体の構造上、「手の甲」は自然と目にふれるが、「手の平」は意識的に観る必要のある「文化的な営み」なのである。

人間は顔で生きる動物でもある。元気の有無や喜怒哀楽の表現は、言葉以上に顔がしてくれる。他者との交流手段として機能させるには、顔は毛むくじゃらではない方がいいため、顔の毛が激減していったそうである。

こうした特質をもつ人間の手や顔は、心身医学や社会科学などの面からも、研究に値するものなのだろうが、手相や人相と真剣に取り組む学者はほとんどいなく、むろんまだまだナゾだらけ。心と身体の状態を発露した結果が、手と顔の相ではあったとしても、手と顔から心と身体の内面を読みきってゆくのはそう簡単ではない。

「日本の政治家の人相は悪い」といわれる。最近の日本人の人相はますます悪くなっているから、もしかしたらみんな政治家的になっている、といえるのかも知れないか、人相がすごく悪いからといって日本の政治家に向くとは限らない。額が広いと頭も良さそうにみえるが、顔を見てその子の偏差値を当てることもできないのである。

そんなこともあって、この闇のような〔学〕は、〔大道占い師〕の独擅場となる。

人類という生き物は、暗黒大陸や未開地のような闇の部分に光を当て、侵入するという歴史だったともいえる。と同時に人々は、神々の棲息する森や聖地や闇の部分や、闇に生きるような異人を、無意識的に残そうともしてきた。

村社会と違って、都会のように資本の論理による開発志向が強く作用する地域では、自然の闇は維持されにくいのだが、そこはうまくできていて、ビルの屋上の鳥居のように、コンクリートの箱で形成される都市空間のちょっとした隙間に、闇の部分が自然に形成される。

得体の知れぬ〔大道占い師〕が、その都市の片隅に座ることによって、都市の小さな闇は、より闇らしくなる。〔大道占い師〕は、都市にも不可欠な闇を演出してくれる異人神=聖職者なのだ。

合理主義に固まった都会人が、道の片端に居座る彼ら彼女らを蔑視しようが、無視まではできないだろう。路上の浮浪者とは似て非なる存在だし、第二堂々と通行人を見すえているではないか。

毎日決められた生活をし、理性と分別で行動の自主規制をしている市民も、時折ささやかな事件や悩みを抱え、不平・不満・不快感をつのらせる。大宇宙からみればミクロのチリのようなことでも、その当人にとっては一大事。理性や分別などは、強固に凝結された組織と日常性のなかで作用するもので、そこから突き離されたとき、自分がいかに頼りない存在かを痛感する。

悩みとか迷いというものには、精神的飢餓感や寂寥感や空白感が付きまとうもので、そんなとき「いい人」が身近にいれば、心も温かくなり、ある程度満たされた気分になるだろう。だが、「いい人」はいま、あくまで組織や経済活動のなかで演じられるまでに時代は変化した。

悩みと迷いにさらされた人々は、エアポケットに入ったような苛立ちで、インスタントでもいいから、「自分にふれてくれる人」を求めようとする。それが路上に居る。変な人叺偉そうな教義はない孤独な〔卜師〕=〔街占者〕というわけである。

古色蒼然としているからなおさら、街占者が見台に立てるローソクの揺れる光明は凄味がある。手を照らす懐中電灯の光芒にも、人々は眩惑される。自分の顔をしかと見つめ、手を握ってくれる占い師。世界一オシャレといわれる日本の未婚のOLや女子大生に、意外と街占ファンが多いのも、そうした凝視とスキンシップの快感が景あるからだろう。

むろんお客はギャルだけではない。主婦や青年……政治家とその秘書……サーブリーマン……自営業者……社長……会社役員……お金持ち……芸能人……フリーター……ほおかむりしたような歩き方で、深夜に忍び足で立ちどまる夜逃げ倒産社長だってやってくる。入院する病院の方向を相談する高齢者……独立開業を志望する気弱そうな青年……息子が交際している派手なオンナと縁切りさせたい母親……などなど、深刻な顔付きで街占者に手を差し出してしまう職種や階層は、実にさまざまだ。

街占者が最も嫌うのは酔っぱらいだ。が、現代人は、酒をあびてようやく我にかえれるような忘我自失の状態で酷使されている証拠。どうか全国の街占者の皆さん、ろれつのまわらないサラリーマンに「ウラナエ!」と言われても、やさしくしてやってください。同僚と酒を飲んでも、いや飲めば飲むほど寂しくなってしまうほど、管理されてしまった組織人が、束の間のふれあいを求め、錆びついた精神の清掃、つまり、喉に詰まったドス黒い痰のようなものを吐き出す「心の立小便」をしたがっているのです。

いま日本の都市の路上で、何人ぐらいの街占者が商売をしているのかは、まったく把握されていない。街占者はもちろん、自宅や事務所で占いを業としている人々も、特別な許可や届出などは必要としないからだ。業界通によると、全国には十万とも五十万ともいわれるプロやセミプロがいるそうだが、いずれにしても、精神科医の人数を圧倒しているのは確実だろう。

かつては、大道で生き恥と無知ぶりをさらすことも、「占術の大家」になるための修業の一つとされてきた。だが、最近は占い師志願者の考え方も大きく変わり、路上で開業する駆け出しは急減している。各地の商業ビルに占いコーナーや占いショップができ、街占のお客は減る一方なのである。

街占者のショバは、街の中心部にある駅前や商店街、飲み屋街などにほぼ限られていて、よく見かけるのは、なぜか金融機関のシャッターが閉じられた前だ。

「住所不定無職の路上生活と街占は三日やったら辞められぬ」などとというが、毎日休まず店を張る人がほとんどらしい。もっとも、昼間は家でゴロ寝をしながら酒を飲み、飲み過ぎた日は稼ぎに出ない、という自由人も少なくないとも聞くが……。

お客と同様に、「街占者」も実に千差万別で、この種族のバラエティに富んだ「人材」ぶりに驚かされた。

昼間は図書館で思想書を読みあさるのを日課にしている人……一言の励ましを与えたいために街頭に出るというボランティア精神のオジさんやオバさん……お客を腐らせながら当てずっぽうを喋り、高額の見料を巻きあげる者もいる。

花売りをしながら占ってくれるロマンチスト…腹を立てるとすぐ短刀を抜き、露店商仲間からも恐れられている男……とにかく目立つことが先決と、僧侶や神主のコスチュームで威張っているヒゲ面……ホステスのような厚化粧で決めている女占い師もいて、スケベ心で手を差し出すと法外な料金を請求され、文句を言おうものなら近くに出ている″マル暴″の大センセイが飛んできて、逆に脅されるといった話もある。

そのほか、離婚がきっかけで占いに溺れて、街占者になったオンナ……転職バックをした末に、占い師にたどり着いたオトコ……元僧侶……自称医学博士、元社長、売春兼業のオンナ……乳飲み子を背負った主婦……懺悔の気持ちで占っている前科何犯もいる。

最近すっかり増えてしまったのが、某新宗派系の街占者だ。その教団の九州一派に手相を教える先生がいて、その弟子が北上。弟子が弟子を生み、すでに全国で三千人が都市の路上で見台を構えながら「布教活動」をしているという。

この一派の街占者たちは、表情筋が退化したような無愛想な顔だちで……空を見つめるような眼付き……といった共通特徴があるため、遠くからでもすぐ判別がつくはずだ。

客を待っているようすがない者もいて、何のために出ているのか、疑問に思うのだが、たまに引っ掛かる客もいる。ひととおりの手相判断をしながら、因縁話にもち込むのがこの一派のやり方になっているのも知らず……。

「悪因縁を断ち切るために、うちの道場で修業しなさい。ついては指導料三十万円を……」というのが彼らの手口である。

教団系であろうがボヘミアン系であろうが、街占の開業は、その街をショバにしている地元のヤクザに礼をつくし、場所代を払うシキタリが強制されてきた。街によっては、親分の出所祝いや盆・暮のつけ届け、冠婚葬祭の付き合い、各種興行のキップ購入なども強要され、泣かされることも少なくない。

1992年から施行された「暴力団対策法」によって、この点が少しは改善されたし、喋ることに自信があり、多少の社会常識と人生経験をもっていれば、街占は誰にでもできる。つまり、手相や人相を観る側と観られる側は、一見かけ離れているようだが、その境界などはファジイで薄っぺらなものなのである。

だから、たまたまプロの街占者の代わりを一日だけやったのをきっかけに、それ以来、街頭に座るようになったという占い師もいる。元の職種がさまざまなのは、そのためでもある。

しかし、路上の聖職者には誰でもなれそうな反面、恐ろしさが付きまとう。

その恐ろしさとは、酔客や街のチンピラなどではなく、「日本の無計画に都市化された街」特有の熱気、乱気流、雑音、騒音、臭いなどである。これらが、街占者に、お客以外の者に対する硬い防禦姿勢を形成してしまう。そしていつしか、心も身体も硬化して、ヒビ割れてゆく。そうした街頭の恐ろしさを超越し、野たれ死にするまで心優しきオバさまオジさまであり続けるのは、至難のようである。