「新宿の母」の前には今日も女たちが列を…

ヘソの緒、根っ子、歴史、ルーツ、由緒、古風な地域、ボスなどを持たぬ世界最強の繁華街=東京の新宿は、ありとあらゆるヒトとカネを飲み込み、消化変形しつつ、膨張してきた「租界」である。

誰もが許可証なしで入場でき、勝手気ままに稼ぐ手段をこうじられる原野。喪われたお祭りのアナーキーな賑わいと異様な熱気が、まだここには残されている。功成り名を遂げようと、淪落し野たれ死にしようと、あるいはアングラマネーを駆使できる帝王になろうが、ここは許される都市なのだ。

だからだろう。新宿には街占者がざっと百人も出没するといわれている。西口の駅頭や東口の靖国通りや新宿通りを中心に、各人が絶望と夢を交錯させながら、灯りをともし、アリのような匿名の人間たちの相手をしている。

「新宿の母」という絶妙な雅号をもっ女性占い師=栗原すみ子さんもいつもの場所、伊勢丹わきの銀行前で、今日もっぎっぎと女の子を診ている。

彼女の前に、オンナ達が列をなすようになってもう三十五年ぐらいになる。出ては消え、忘れ去られていった占い師のことを考えると、彼女は恐るべき幸運な人と言うべきかも知れない。彼女ほど名が売れ、客が付いた街かどの占い師は、平安時代からでもいないはず。占い史上特筆すべき存在である。栗原さんが占った女性はすでに、百五十万人! を超えたそうだ。

いまでもお客は一日およそ百人。アベックや、母と息子の客はいいが、並んでいるときに悪さをするので「男性のみ」はお断りだ。六割が学生とOL、三割が主婦、一割が高校生で、平均年齢は22歳ぐらいだという。

栗原さんに手相を診てもらいたいために、早朝七時半には一番乗りが来る。そして、彼女たちは、西日に照らされようが、寒風に吹きさらされようが、排気ガスで鼻穴が黒くなろうが、二、三時間は順番を待つ。オトコは序列をつくるのが好きだが、卵を持つオソナは長蛇の列に耐えられる体質があるのだろうか。

昭和三十年代のはじめ、同じ新宿で三越デパート裏の暗がりに出ていた女性易者も、当時のOLや短大生に抜群の人気を誇っていた。増田朝子さんといって、明治生まれの高齢だったこともあり、1961年で街占を辞めてしまい、だいぶ惜しまれたと聞く。

その増田さんと交替するかのように登場したのが栗原さんなのだが、客数は増田さんをはるかに凌いでいった。

相談内容は、まだ現われ出でぬコイビトのこと、彼氏との相性、ボーイフレンドの選択、結婚、不倫の恋、三角関係、妊娠、近親相姦、夫婦仲など、オトコに関することがほとんど。

だが、ヘソクリで株に手を出して失敗したあげくの離婚や相続のイザコザ、悪徳商法の詐害などの相談もあり、栗原さんは、法律もしっかりと勉強しているという。

栗原さんがここで鑑定を始めた年は、売春防止法が施行された直後で、職を失った女性たちの深刻な、聞くも涙の物語といった色合いが濃厚だったが、最近はオープンであっけらかんとした内容も少なくない。

とはいえ、過剰すぎるほどのモノに囲まれていても、いまの女性たちの心淋しさを充分知りつくしている「新宿の毋」は真剣だ。一人約五分。険しい表情を浮かべながら、太い声と茨城なまりの混じった口調で、たたみ込み説きふせるように「人生訓話」をする。

かつては、定休が月に一日とか、毎週水曜日と大晦日のみ、といった出っぱなしの毎日で、夜の8時9時まで立ち、一日二百人から三百人を診ていた。しかも、帰宅後に手紙による相談の返事を書く凄まじい生活だった。

最近は、還暦を迎えたこともあって、月曜から水曜を「休鑑日」にしているものの、木曜と金曜の午前中は、近くの喫茶店『『ヤセ』で一件七千円の総合鑑定をして、午後一時から五時まで街頭で診る。土曜と日曜は、午前九時頃から午後の五時まで路上に立ち、ぶっ続けで占う。

椅子ぐらい使ったら……と思うのだが、「みんな立って順番を待ってくれているじやないですか。私だけ座るわけにはいきませんよ」と栗原さん。しかも、この間、食事も休息もとらず、トイレにも行かない。

1984年に、温厚な大学教授といった雰囲気のいまのご主人と出会い、車での送り迎えや交渉ごとなどのマネージャー役をしてもらうようになり、だいぶ余裕ができたが、それでも、身体にムチを打ち路上に立ち続けて相談にのる基本的な姿勢は変えていない。

現在は高校生が三千円、一般の人は四千円で、一日百人としても日商約四十万円弱!

だが、手持ちがなかったりする客は無料にしてしまうそうだ。また、「新宿の母・易学鑑定所」という会社組織にしていて、栗原さんが会社から給料をもらう方式にしているし、ふだんは明るく面白いオバさんといった感じで、気前もいい。だから、「お金なんか残さない主義だし、財産といえるものはありません」とキッパリ。

鑑定時間と休日をしっかりと決めて守っているのは、ある事件で栗原さんがひどく後悔したからだった。

ある年の冬のこと。貧乏な絵画きのタマゴと恋におちた社長令嬢から相談を受けたのである。両親に猛反対されているそのお嬢さんに、栗原さんは「何が何でも、好きなら一緒になりなさい!」と激励した。だが、そのお嬢さんは、家族と恋のはざまで憔悴していった。何日かたち、栗原さんがカゼをひいて出なかった日の翌日、栗原さんは前日に令嬢が近くのクツ磨きのオジさんに預けた手紙を受けとったのだ。

「今日一日中オバさんを待っていました。もう一度会って死のうと思い……」と書かれていた。その令嬢は本当に多摩川に身を投げてしまったという。

「だから滅多なことでは休んではいけない」と、その事件以来キモに命じ、健康には他人の数倍も気を使うようになった。一週間に一度は健康診断を受け、野菜ジュースと薬と栄養剤を欠かさない。酒とタバコ、暴飲暴食は厳禁。身長一メートル四十五センチの小柄で、もともとが頑強な身体とはいえ、いまどき珍しい清廉潔白な行者のような毎日を送っている。

「寒さには強いし、冬は耐えられます。いまだって雨の日・雪の日でも休みません、真夏の方がかなりキツイんです。でも、氷で冷やしたタオルを首にまいて頑張ってます」

栗原すみ子さんは、一九三〇年に茨城県協和町で生まれている。四人兄妹の三女で、父とは幼いころ死別。旧制女学校を卒業し、和裁や洋裁を習い、一九五二年に結婚。家族は相手の女グセの悪さと金づかいの荒さを知って猛反対した。三年後に長男が誕生。しかし夫の道楽はやまず、乳飲み児を連れて生家へ戻った。この頃から、彼女の人生の波が大きく狂っていった。

和・洋裁をもう一度学び直しながら、自活の道を探ろうと、単身で上京。ところが、東京で女性一人で食べてゆく生活はそう甘いものではなかった。鬱々とした毎日が過ぎ、働きづめでボロボロになっていった。そんな一九五五年の夏のある日、銀座の占い師の前で足をとめたのが運命のいたずらだった。

「悩んでいるようですな。あなたは典型的な後家相。オトコ運は良くないよ。気性も激しいし……独立心が強いから、自分で何かやられるといい」と言われたのである。

生活に疲れているとき、占い師の言葉はグサリと胸。に突き刺さる。このひと言が栗原さんに新しい活路を開かせる勇気を与えた。占い師の多くが、ひょんなきっかけで占い師に弟子入りして、この商売を選んできたように、彼女もその占い師に付くことを決めたのである。以来、一杯飲み屋の手伝いや出前運び、オミクジ売りなどをしながら、易者修業に励んだのだ。

ところが、家族は、彼女の決意を聞いて激怒し、嫌悪の情をつのらせ勘当同然の扱いをするようになった。別れ別れとなった長男は、「父も母も死んだ」と教えられて育った。長男が栗原さんを「お母さん」と呼び、一緒に住むようになったのは、一九七八年、長男が二十四歳になってからだった。

易者修業で栗原さんも、東京の銀座、池袋、渋谷、上 景野、浅草、赤羽、高円寺、吉祥寺、大宮、横浜など、開業場所を転々としている。道路交通法違反だ、と警察か 風らは睨まれ、同業者の嫌がらせやヤクザのイジメもたくさん味わっている。新宿のいまの場所に来たのは、一九五八年。その場所はそれまで、別の門人がやっていたものの客が付かず、食いつめて首をくくったとのエピソードも残っている。

この頃は、占いがブームになりはじめ、女性の占い師が脚光を浴びようとする時期でもあった。栗原さんのまわりには、たちまち黒山の人だかりができ、それがいつしか行列に変おっていった。そして、日を追うごとにお客が増え、全国でナンバーワンの占い師になったというしだい。

栗原さんの人気は、茨城県人に多い計算抜きの正直さと、サービス精神からきているのだろう。そうでなければ、これだけの知名度を得たいま、街占の、それも立ちっぱなしの「立見」などは続けられないはずである。エアコンと座り心地のいい椅子のある豪邸や事務所で占う「宅占」に転じてもヽいまの稼ぎはもちろんヽそれ以上の実入りも確保できるはずだ。

だが、「そんなことをしたら、本当に困っている女性が来られないじゃないですか」と言い切る栗原さんだ。

栗原さんの占いは、手相と生年月日を中心にしていて、方位の吉凶は口にせず、墓売りや開運印鑑売り、といった霊感商法的なことはいっさいしない。逆にそうした霊感商法に引っかかり、五十万円、三百万円と払ってしまい、心の傷も負った人々をたくさんケアしてきた。

「最初に私のところに来てくれれば、霊のタタリなんてないんだよ、と言えますが……祈祷料は取り戻すのがたいへんなんですよ」と残念そうだ。

「占いは、女性たちが迷いの淵に落ちぬよう、自分の力で不運から抜け出し、幸せを手にするよう、親身になって、自信と勇気と希望をもたせる言葉を投げかけること」というのが栗原さんの信条で、占いをこえた「街かどの人生コンサルタント」といった方が良さそうだ。これが、若い女性たちを引きつけるらしい。

「先生こんにちは。この1ヵ月あまり、自分で自分を苦しめ、暗く沈んだ日々を送っていました。しかし、先生に占っていただいたお陰で、自分の周囲にあった霧がサッと晴れたような気がしました。これからは、前向きに努力して明るくなろうと思います。本当にありがとうございました」

「チャンスは逃さないでね、との先生のお言葉があったからこそ、現在の新しい夢と新しい世界に恵まれ、充実した毎日を過ごしております。本当にありがとうございました」

こうした感謝の手紙が月に百通ぐらい寄せられる栗原さんは、「体力が続く限り、華やかで残酷な大都会に押しつぶされそうな女性相手に、街かどの占い師を続ける覚悟。私の仕事を邪魔する者は家族といえども容赦はしません」と言い切る。これほど徹底した街かどの占い師は、もう二度と再び、登場することはないに違いない。

栗原さんは、一九九三年の夏、故郷の茨城県協和町に、千七百万円を投じて、『幸せ観音』を建立した。弟が住んでいる家の裏側の五百坪の農地を、公園のように整備。五メートルの観音像を据えたのだ。

「ある神職の方から、手紙をいただきましてね。もしあなたが、いなくなったら、悩んでいる若い女性たちはどうしたらいいのか? と書いてありました。これにハッとして思い立ったんです。私がいなくなっても、支えのようになれば……との願いを込めて建てたんです」

だからといって、栗原さんは、教祖になったり、宗教法人にするつもりはまったくない。ゆくゆくは、そこを女性の駆け込み寺と人生相談所のようにしてゆくつもりという。