迷い多き人生の並木道。一度は占っておきましょう

十数隋建てが林立する東京・板橋区の高島平団地―。いまは防止フェンスが張られて、めっきり少なくなったものの、1970年代に建てられて以来、自殺志望者憧れの″景勝地”とされ、屋上や階上の廊下から、これまで百人ぐらいが死のフライングを決行している。

そんな団地の中央通りに、占いオバさんが出ていた。

オバさんが占いの場所に決めていた周辺には、生鮮食料品の移動ショップなどが店を張っていて、ざわついた雰囲気はあるものの、白昼の団地通りと占い師の取り合わせは、どう見ても奇妙な風景だ。

だが、そんなことはおかまいなしに、オバさんは毎日11時ごろ、埼玉県の志木から「出勤」していた。

大きく育った並木に、ヒモでくくり付けておいた日本酒の木箱から、青いビニール袋や壊れたストーブなどを取り出すのが一日の始まりだ。

袋の中には、筮竹や天眼鏡など、商売用の小道具が隠してあり、木箱は、そのビエール袋をテーブルクロスがわりにして「見台」に仕立てるのである。

壊れたストーブがオバさんの椅子で、そこに小さな座ぶとんを載せれば、まんざらでもない。そして、排気ガスと埃ですっかり灰色にくすんだ木綿の幕を、並木の枝と見台をうまく使って張れば、一日の準備は完了だ。

『迷い多き人生の並木道。一度は占っておきましょう』

こんな惹句や手相の解説などが書かれたその幕の横で、オバさんは夕方の6時ごろまで、ジッと客を待ち続ける。しかし、寄り付く客は皆無で、残念ながら、自殺志願者のお相手もまだ体験したことはない。

時間を持て余すあまり、筮竹を両手でガチャガチャと絶え間なく打ち鳴らすのが、いつの間にかオバさんのクセになってしまった。

街頭や路上の占いを「外占」とか「街占」と呼んでいるが、オバさんが、高島平団地でそれを始めたのは1978年頃である。それまでは、自宅に近い埼玉県の成増駅前で、サラリーマン相手に、夕刻からローソクを立てていた。「夜はツライしね。それにここはオンナの街だからね……」と高層団地を見上げながら、高島平が気にいっているようすだ。

新潟県十日町出身のオバさんの生家は、天理教だった。

「宗教が嫌で嫌でね。東京へ逃げ出したんだ。でも結局は、親と似たようなことをやっているんだよ」

戦時中は向島で勤労奉仕。二十歳で結婚し、三十歳で離婚した。子供は生まれなかった。その頃は、親類や家族の死が重なる逆境の連続だった。そこで易者を何人か尋ね歩いた。その一人に「辱しめ」を受けながらも、手相・人相・易を独学するようになった。飲食店で働き、自分の店も持ったこともある。酒場の酔客は、占いの勉強にはもってこいの教材だった。

「自分の方が酒に溺れちゃってさ。毎日ベロンベロンになるまで飲んでいた時期があった。アル中だよ。それを治そうと思って、ウンメイガクというクスリに頼っの」

その後お店をたたみ、〔街占者〕となったわけだが、占い師のほとんどが何らかの新聞や雑誌や放送局の取材を受けたことがあるように、オバさんも、団地新聞『高島平』に登場したことがある。そのときは、和服姿も凛々しく、胸を張り、メガネもキラリと光っていた。その新聞の見出しには、「団地族の悩み一身に。離婚、酒乱、尽きぬ相談」とあった。

「写真、撮っちやダメだよ。キライなんだ」

その新聞に登場した頃が、オバさんの最良期だったのかも知れない。当時の写真とくらべると、顔つきも身なりも、ひどく痛めつけられてしまったような感じだ。

冬は、並木の枯れ枝の隙間から陽光がオバさんを照ら 景し、木の幹が北風を防いではくれる。夏は、生い茂った木の葉が日傘がわりになるのだが、街頭で繁盛しないツラさはおおえまい。

「でも、ここに住んでいた20歳前後の若奥さんに泣きつかれたこともあったんだよ。主人が子連れの再婚で、自分の子供もできたけど、先妻の子とうまくいかないんだ。それで衰弱気味になっていて、五階のその子の部屋まで行ったことがあるよ。ワイワイ泣いてね。この街とも相性が悪いんだ。占い師にというより、大正生まれのオバさんに泣きすがったんだね。結局は足立区の方へ引っ越しだけど、転居日も診てやった。団地を出ることで解決しようとしたんだね。ここにもよく来たので、話し相手になってやったけど、「易者と相談している」って、たちまち噂のタネにされたらしい」

雨の日や雪の日は「店開き」ができないため、オバさんは一人暮らしの部屋で「書きもの」をしている。『カラカサの謎』『夢と現実』『私は野良猫放浪者』など、かなりまとめた。

「私、放浪癖があってね。月がきれいだ、星が美しいと思うと、フラフラ歩きたくなってしまう。連絡先かい?野良猫にたいした宿はいらんし、電話もないよ……自由でいいでしょう……でも、私ってグズグズしていて嫌になっちやうの。私の手相って、なかなか読みにくいんだ」と、シワだらけになった手の平を見せる。

オバさんが出ていた頃は、右手がかなり広い原っぱだった。いまは、地域図書館を兼ねた行政センターが建てられ、風景は一変している。そのセンターが着工した年だった。

「部屋代がたまっちゃってさ。家主に追い出されそうだよ。お金……貸しておくれよ」

公衆電話から私に連絡があったのだが、それ以後、オバさんは高島平から姿を消してしまったのである。